意味のない指導をしている。

自分のしている指導が、
意味がないなぁ、
と思うことがあります。


いや、思うことがある、というレベルではない。
ほぼ常に、思っています。


当たり前のことです。

指導とは、学力を伸ばすためのものですが。
学力とは、自分自身でしか伸ばせないものだからです。



それでも、「指導」という名を借りて、
やっていることといえば。

「知識」を伝えることぐらい。

言うまでもなく、こんな行為も、ほとんど無意味です。


辞書すら簡単に手に入らなかった時代と違い、
スマホがこれだけ流通している現代、
「知識」なんてものは、
いつでも、どこでも、入手できるのです。


勿論。

その状況での必要な知識を、正確に、素早く教えられる、
という点で、
スマホよりは、多少役に立つことは出来ますが。


それでも、勉強に限らず、
「近道」をせず、
「敢えて遠回りをする」ことで得られること、
それでしか得られないことも、
数多くあるものですし、
そちらの方がより大事なことも、よくあるもの。

そもそも、「遠回りしてでも自分で答えを見つけ出すこと」を、
私は常々推奨しているのです。

私の指導が逆効果になっているケースも、
多くあることは、自覚できているのです。



無論。

「スマホでは得られない」知識というのもは、確かに存在します。
特に、非常に高度な、難解なものだったりする場合は、そうです。

ですから、一流大学の講義などは、
これだけ情報が満ち溢れている現代でも意義は十分あります。


でも。

小学生、中学生には、そんな高度な勉強は存在しない。

無論、「難しい問題」は存在しますが、
それは、今持っている知識を「組み合わせる」方法が難しいだけで、
決して「高度な知識」が必要なのではない。


そして、「必要な知識」に関しては、
学校が時間をとって伝えている。


何をどう考えても、
小・中学生に、「塾が指導する」なんてことは、
意味がないのです。





ただ。

現実的に。

では、塾など一切なくても、あるいはそれがない方が、
学力は伸びるか、と言われれば。


それは違うでしょう。




率直に言って、
「塾」の授業のほとんどは、
無意味ですし、逆効果すらあります。

多くは、一時的な「知識」を与えることで、
目先のテストで点数を伸ばすだけ。

そんなものは、抜け落ちたら終わり。
無意味です。

むしろ、
そんな作業をするだけで、
「勉強した」「伸びた」気分にさせてしまう分。

本当に「勉強すること」「伸びること」を知らぬままに成長させてしまう分、
逆効果すらあるのです。



それでも。

「塾の授業」に意味のあるケースは、確かにあるのです。




例えば。

塾に行けば、
普段、自分や、自分の周りの世界だけでは触れることの出来な「知的な」物に、
触れることができる。

それは、生徒の向学心を掻き立てるのに、非常に大きな要素なのです。


或いは。

無意味な作業であっても、「知識の詰め込み」を繰り返している内に、
その知識を元にして、非常に難解なことを理解出来るようになる、
そんなケースもある。


私自身。
公文式で高校範囲の数学を終えていた小学五年生のときに、
初めて「塾」なるものに出会い。

そこで鶴亀算や過不足算、ニュートン算などの「特殊算」を知り、
その面白さに、興奮したものです。

また、丸暗記した地理用語、歴史用語、ことわざ、外来語などが、
読解力の下地になったのは、疑いありません。




そういう意味で、
「塾」には、確かに大きな役割はあります。



あるのですが。

ただ、それが限定的なものであり、
誰にとっても効果的な訳ではない、というのは、
非常に大事な要素です。



塾の授業なるものが、役に立つのは。

あくまでも、「もともと知的好奇心のある生徒」に対してのみ、
という点。


鶴亀算など知らなくても、答えは出せる。
でも、もっと効果的な出し方を知りたい。

本をたくさん読んできた。
でも、もっと難しい本も読んでみたい。




そういう指向、「知的な欲求」のある生徒に限って、
「塾」は意味があるのです。





そして、現実問題。

そういう、「知的な欲求」を持つ生徒は、ほとんどいません。

いや、ほとんどいない、というのは言い過ぎですが。
「嫌なことを我慢してでも、出来るようになりたい」というレベルの、
「強い欲求」を持つ生徒は、ほとんどいません。



ですから。

「こんな解き方がある」と鮮やかな解法を見せたところで、
へぇ、という反応で終わり。
「こんな解き方をしなさい」と指示しても、
その場は出来ても、すぐに忘れて終わり。



結局のところ、「指導」という名前を冠して、
私がやっていることのほとんどは、
ただ「知識の垂れ流し」をしているだけ。

生徒がその気になれば、
学校で、インターネットで、
いくらでも手に入る知識を、
お金をもらって伝えているだけ。



凡百の塾と、
悪影響しか与えていない塾と、何ら変わりません。


意味がないなぁ、と思いますし。

虚しいな、とも、腹の底から思うのです。







ですから。

やはり、せめてもの抵抗として、
その「知的な欲求」を駆り立てるべく。

いくつかの工夫はしています。



特に多くしているのは、
知的な、でも楽しい話を、色々と語って聞かせること。

学校はもちろんのこと、インターネットにもないような話を。


真面目に語る勉強の内容より、ずっと印象に残るようで。


長期的に見れば、
そちらの話の方が、ずっと効果的な勉強である自信はあります。

実際、よく出来る生徒というのは、
例外なく、そういう話を多く知っているもの。

私が小学生時代に通っていた塾の教師も、
知識を詰め込むのは全て宿題にし、
授業時間は、そういう話ばかりしていました。

そして、灘中に多くの生徒を送り出していた。



私自身、そういう話をしている時間の方が、
知識を垂れ流す時間より、ずっと楽しいのも事実。


ですが、それは。

残念ながら現在、
「塾の授業」に求められている姿とは、大きく違うようで。


かつ、
そもそもの知識を、自分自身で習得する段階で、
行き詰まってしまう生徒がほとんどであるために。

結局のところ、「知識の垂れ流し」に戻らざるを得ないのが、
実情なのです。























この記事へのコメント