「教育のようなもの」のススメ

この仕事をしていると、模試や入試の国語の問題のお陰で、

普段自分からは目を通さないような文章を読む機会が多くあります。

模試では、文章そのものも低レベルであることも多いのですが、

流石に入試問題、しかも一流と呼ばれる学校の問題ともなると、

「そうだよなぁ」と思わせてくれる文章が多い。



中でも強く共感を覚えたのが、こういう文章です。



『バールを探している時に、「バールはどこだ」と考えて探すよりも、

「バールのようなものはないか」と考えて探すべきだ。

そうすると、バールそのものはなくとも、

バールのような働きをする別の道具を見つけた時に、

「ああ、これがバールの代わりに使える!」と気づくことが出来る。

「気付き」「ひらめき」を得ることができる。

でも、もし「バール」だけを求めていたら、

その道具に気づかず通り過ぎてしまっていただろう。



仕事などでも、同じことが言える。

具体的にああしろこうしろと細かいことまで指示されてしまえば、

その指示通りにするだけで、仕事は終わってしまう。

もしこれが、抽象的な指示であれば、

「どうやればいいのだろう」

「その仕事は何のためにやるのだろう」

ということまで考えるようになり、

仕事の質が向上し、本人の成長にもつながる』




これは教育に関しても、全く同じことが言えると思うのです。


例えば数学の問題 において、

「この問題はこう解くといった具合に、

「解法」覚えることを勉強だと思っている生徒がほとんどであり、

そして「解法」を出来るだけ多く頭に入れているのが良いことだ、

と考える生徒がやはり非常に多い。




でも、私はこれこそが、多くの生徒を、

「数学が苦手」にしてしまっている、最大の原因だと思っています。

こういう生徒は、工夫が効かない。

少しでも出題形式が変わってしまったり、

少しでも覚え違い・計算ミスなどをしてしまったりしたら、

非常に簡単な問題であっても、あっさりと間違えてしまうのです。


言わば、「釘を抜きたい、でもバールがない」、

でも実は「手で少し引っ張れば抜ける」、そんな状況下で、

彼らは、「バールがないからダメだ」と諦めて、

適当なことをして終わらせてしまうのです。





だいたい、で良いのです。

だいたいの解き方を知った上で、

自分の手で、色々工夫してみればいいのです。



バールが無ければ手で釘を抜こうとしてもいいし、

定規や歯を使ってもいい。

どんなやり方であっても、正しいことをしてさえいれば、

行き着く答えは絶対に同じになる、

というのが、数学・算数の醍醐味なのです。




その醍醐味を十分味わった上で、

「バールなんていらん」「バールがやっぱり必要」などの結論を、

自分の頭で出せば、それでいいのです。

それこそが「学習」であり、「成長」であるのです。




だから私は、「やり方を手取り足取りきっちり教える」

なんてことは滅多にしません。

常に、「だいたいの方向性を示す」ことを心がけています。

また、「どこまで考えたのか」を説明させ、

その考えの間違いを指摘し、

その部分だけ修正するよう指示することも多い。

「全くわからない」という生徒にも、

「まず図を描きなさい」「表をつくりなさい」と指示し、

生徒がそれらをやってきた上で、初めて指導を行う。



そういったことをした上で、残りはもう自分で解ける、

と確信した時点で、あとを生徒に任せます。

これだけが、「指導」だと私は思っています。



しかし。

これは、塾の評判を考えれば、危険な行為なのです。



事実、私は、「ちゃんと教えてくれない」というクレームを受けたことが何度もあります。

そして、「あっちの先生はもっと丁寧に教えてくれる」と、

家庭教師だったり他塾に走られてしまった経験も何度もある。



そういうこと=「バールを与える」塾が、先生が、

「良い先生」だと思われてしまっている。



違うんだ、そういう先生は逆に生徒をダメにするんだ、

そんな私の訴えは、なかなか届かない。




さらにいえば。

塾が、「何を・どれぐらい勉強するか」まで逐一指示したりする行為もまた、

「バール」そのものを与える、非常に愚かしい行為です。



こういう指示を受けた生徒のほとんどは、

「その指示に従っていればいいんだ」と思い、それ以外のことをしなくなる。

考えなくなる。

入試直前、国語が得意で英語が苦手な生徒が、

「塾で出された宿題だから」と、

英語を全くやらずにひたすら国語の問題を解いている姿を見て、

さらに、その宿題を終えて満足し、心置きなく遊んでいる姿を見て、

私はひどく悲しくなったものです。





今自分にどういう勉強が必要なのか、

どうしてその勉強をする必要があるのか、

本当にこういう勉強で大丈夫なのか、

そういった「考える」行為を子供はしません。




結果として、勉強は非常に効率悪いものになってしまいます。

それは自分に合った適切なテーマを学習できないというだけでない、

「どうすれば効率よく勉強できるか?」とか、

「ミスを減らすのにどうすればいいのか?」とか、

そういったことを自分で考えることもしないので、

結果、知識は増えても抜け落ちたら終わり、というだけの生徒になってしまいます。



だから私は、(特に中学生以上には)出来る限り問いかけます。

「次は何をの勉強をやりたい?」「次に何をやるべきだと思う?」

「この結果をどう思う?」「どうしてミスをしたのだと思う?」

「次にミスをしないためにはどういうことを心がければ良いのだと思う?」

そういったことを問いかけ、生徒自身に色々喋らせるようにしています。



そしてそれを聞いた上で、

「では、今後こうやってみては?」という「提案」をします。

(さすがに小学生にはこういうことをしません。

代わりにご家庭に対して行います)

つまり、「あっちに進め」と「示す」のではなく、

「あっちの方に行けばいいのじゃないか?」と「導く」のです。

こういう「指示のようなもの」こそが

「指導」だと私は考えています。





でも。

これまた塾の経営から考えると、難しい問題なのです。

特に保護者の方から、

「もっと宿題を出してほしい」

「もっと授業に来るように言って欲しい」

つまり、もっと「指示してほしい」、

という要望をもらうことが本当に多い。

塾には、そういうことを期待している方が多い。



そして塾としても、それに応じることで、

生徒の受講時間が増え、お金儲けになるのだから、それに応じるのが普通です。



でも、私は、そうはしたくない。

そんなことでは、生徒は本当の意味では伸びない。

でも、そうしないと、家庭は満足しない。



ここにどうしてもジレンマが発生してしまうのです。






さらにもう一つ言うと。

「勉強」だけで能力は決して伸びません。

なぜなら、「勉強」そのものは、決して楽しいものではないから。

楽しくないものに対しては、人は深く考えようとしないし、

深く考えないことに関して、能力が伸びるはずもないから。




ではどうすれば能力は伸びるのか?

それは、「勉強のようなもの」に生徒が興味を示した時。

歴史だったり地理だったり、哲学だったり小説だったり、

宇宙だったり化石だったり、英会話だったり中国語会話だったり。

「勉強」そのものではないが、その周辺にある「勉強のようなもの」ものは、

基本的に非常に「楽しい」ものです。

楽しいから深く掘り下げたくなる。

そうなった時に、初めて、「勉強」そのものの効用が、

その意義が、理解できるようになるのです。

例えば明治維新がテーマの歴史小説や大河ドラマを楽しむことで、

日本がそういう状況に至った原因を学ぶことに意欲を持つ、

というように。


そうして初めて、意味のある、効率の良い勉強ができるようになるのです。




だからこそ。

学校で、そして塾ですら、

「勉強」そのものを押し付けられている子供たちには、

家庭では、絶対に、「勉強のようなもの」を与えてあげてください。



それこそが、「教育」そのもの、いや、「教育のようなもの」なのです。














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